その日は朝から激しい腹痛に襲われ、冷や汗を流しながら駅前のクリニックへ駆け込みました。受付でいつものように保険証を出そうとして、私は凍りつきました。カバンの中にあるはずの財布がないのです。昨日、帰宅途中にどこかで落としてしまったのか、あるいは家に忘れてきたのか。意識が朦朧とする中で確かなのは、今の私には健康保険の被保険者であることを証明する術が何一つないという絶望的な事実でした。受付の女性に事情を話すと、彼女は慣れた様子で「今日は全額自己負担になりますがよろしいですか」と問いかけてきました。背に腹は代えられず頷きましたが、診察が終わった後の会計で提示された金額は、私の想像を絶するものでした。血液検査と点滴、そして処方箋の代金を合わせて、請求額は三万円を超えていたのです。普段なら数千円で済む診察が、保険証がないという一点において、これほどまでの重圧となってのしかかってくるとは思いもしませんでした。財布がないため持ち合わせの現金も心許なく、結局、スマートフォンの電子決済が利用できたことで辛うじて支払いを済ませることができましたが、もしスマホまで失っていたらと思うと今でも背筋が凍ります。会計時に渡されたのは、普段目にする領収書よりも詳細な明細書でした。受付の方は「今月中に保険証とこの領収書を持ってきていただければ、七割分をお返ししますからね」と優しく声をかけてくれましたが、痛みと金銭的なショックで、その時の私は力なく頷くのが精一杯でした。帰宅して家中を必死に探し、ようやく棚の隙間に落ちていた財布を発見したとき、中に入っていたプラスチックの保険証が、まるで黄金のカードのように輝いて見えました。後日、無事に新しい保険証を提示して二万数千円の返金を受けたとき、改めて日本の医療制度の手厚さと、それを支える保険証の重みを痛感しました。私たちは普段、空気のように当たり前に医療を安価で受けていますが、その裏には厳格な証明制度が存在しています。この一件以来、私は保険証のコピーをスマートフォンのカメラで撮影して保存し、さらにマイナンバーカードを保険証として登録し、財布とは別の場所に保管するようになりました。二度とあの時の無力感を味わいたくないという強い思いからです。不運は重なるもので、体調を崩す時に限って大切なものを失っていることがあります。保険証がない状態での病院受診は、経済的な打撃だけでなく、社会的な繋がりを一時的に絶たれたような、言いようのない不安を伴うものでした。だからこそ、もしもの時のための準備を怠らないこと、そして万が一の際も病院は助けてくれるという仕組みを知っておくことが、本当の意味での安心に繋がるのだと深く学びました。